

THE HISTORY OF ROYAL FLYING DOCTOR
-Royal Flying Doctor Service of Australia-
オーストラリア紙幣
の材質は、紙ではなくポリマーという柔らかいプラスチック素材で製造され、手触りは柔らかく、丈夫で水にも強い。
1988年に世界で初めてポリマー紙幣を記念紙幣として発行。
その後、92年から96年にかけて、5ドル札から徐々に一般紙幣にも導入し、流通している全ての紙幣がポリマー製に置きかえられた。
ポリマー製にした理由には、清潔さ、耐久性、偽造防止などの利点のほか、伐採による森林破壊を防止する環境保全という理由がある。
紙幣の寿命は、紙製なら数ヶ月といわれるのに対し、ポリマー製のものは少なくとも30ヶ月はもつという。
ポリマー製ならば寿命を終えても他のプラスチック製品にリサイクルすることも可能である。
その紙幣のなかには20ドル札がある。
人物像にはロイヤル・フライング・ドクターの創始者ジョン・フリン師の顔が印刷されている。
近年、日本国内でもドクターヘリによる救急活動が実験的に始まったが、世界で最初の航空機による救急活動の先駆けは、オーストラリアのロイヤル・フライング・ドクター・サービスである。
今年の2008年5月15日。
ロイヤル・フライング・ドクター・サービスは設立80周年を迎える。
オーストラリア内陸部の開拓時代、アウトバックでの重病・事故は「死」を意味し、そこには数多くの墓が建てられ、なかには迅速な医療援助があれば助かっていた人々も眠っている。
しかし、1928年のロイヤル・フライング・ドクター・サービスの誕生によって多くの命が救われた。
1930年代には内陸居住者の緊急援助のみならず、包括的に健康管理サービスも供給できるコミュニティして瞬く間に全国規模で発展、オーストラリアの広大なアウトバックに大きく貢献した。
ジョン・フリン師は、オーストラリア奥地の有名な山賊ネット・ケリーが処刑された年、1880年11月25日中央ビクトリアのモリアガルで生まれた。
彼の父、学校の教員であったトーマス・ユージーン・フリンは、1876年4月にロセッタ・レスターと結婚、3人の子供を授かった。
その末っ子がジョン・フリン師であった。
母ロセッタは、ジョンが3つのときに亡くなった。
彼は親戚に預けられていたが、数年後、バララット近郊スネーク・ガリーで家族と再会、一家はメルボルンの西行政区にあるサンシャインへ越した。
あるとき、父のビジネス・パートナーが極北への投機事業に失敗した。
その出来事は若いジョンに広大なアウトバックへの開拓精神が芽生えさせ、彼の夢物語への起点となった。
ジョンは1898年中等学校を卒業して教員職に就いたが、1903年には長老派教会の聖職者になるため、大学への進学を決意。
ビクトリア州の教会宣教師として身を置きながら就学資金を蓄え、1907年にはメルボルン大学神学部の4年制に入学した。
1910年に大学を卒業して翌年の11月には教会聖職師の資格を得た。
ジョンは、在学中もアウトバックで働く興味は膨らみ続け、ビクトリア州と南オーストラリア州の遠隔地域で活動する宣教師ドナルド・カメロン師、アンドリュー・バーバー師の手助けをしていた。
1910年。
アンドリューとジョンは「ブッシュマンズ・コンパニオン」を発刊し、小さい案内書ながら、ブッシュに住む人々を激励する書物として瞬く間にベスト・セラーとなった。
1911年始め、ジョンはついに現実のアウトバックへの途につき、2月には南オーストラリア州都アデレードから北に500キロ以上あるベルタナのダネスク・スミス宣教区に到着した。
ジョンはベルタナで初めてアウトバック生活の非常に厳しい現実を目のあたりにした。
そこには、内陸居住者、また旅行者の医療ケアは皆無であった。
ジョンは翌年に宣教師教会が設置できるよう、年内にノーザン・テリトリーにおける生活環境の報告書をまとめた。
ジョンの推奨により一般集会が行われ、ジョンは新しい組織団体オーストラリア内陸宣教区(the Australian Inland Mission: AIM)の最高責任者として任じられた。
AIMはアウトバック・オーストラリアの「安全なマント」として促進した。
数年の間に看護施設を設置し、牧場監視人チーム、広大なアウトバック宣教区内の地域、世帯をラクダ、馬などで訪問する宣教師、全ての内陸に欠かせない人材を雇った。
そのなかには、後にAIMの先導者となったもう一人の偉大なオーストラリア人フレッド・マッカイ師がジョンの巡回牧師チームに加わっていた。
1932年、ジョンが51歳のときにAIMの秘書であったジーン・バードと結婚した。
1929年頃から始まったアメリカの世界大恐慌に影響されオーストラリアも経済的打撃を受けたが、焦ることなく聡明なフリン婦人は予見者で働き者の夫を陰日向にサポートした。
RFDSを創設し、長老派教会の教会総会議長を2度も務めたジョン・フリン師は1951年に他界。
アリス・スプリングス近くのギレン山に埋葬された。
フライング・ドクター・サービスの歴史は創立者でもある宣教師ドクター・ジョン・フリンとともに歩み、内陸の開拓者たちに多くの勇気を与えた。
1911年、ジョンは南オーストラリア州の北にあるベルタナ布教区で最初の活動に就いた。
赴任後、アウトバックの人々と親しくなり、翌年にはオーストラリア内陸布教区(AIM)長老教会未開地部の初代最高責任者に抜擢された。
彼の宣教師としての仕事は、ノーザンテリトリーの150万平方キロと西オーストラリア州の30万平方キロの地域に2名の医師だけというところから始まった。
ジョンは、内陸居住者らの「孤独」と「恐怖の苦痛」を取り除くため、先ず、アウトバックの遠隔地域に森林病院と宿舎の設置に着手した。
この施設の設置はアウトバックの重要業務として成功を見たが、問題の表面を掻いただけに過ぎなかった。
問題はまだまだ山積みで、患者の遠距離搬送の困難性、通信不通による連絡の遅れ、医療の不足などが原因で多くの人々が亡くなっていた。
1903年、フライヤー1号が前人未到の大空へ舞い上がった。
ライト兄弟が人類初の有人動力飛行に成功した。
それ以来、航空機は瞬く間に開発され続け、1918年には飛行機が人類の輸送手段として証明され始め、平行して無線通信機も数千マイル離れる人々を繋ぎ始め、科学は著しく進歩し、その能力はさらに発揮されていった。
ジョンは、飛行への関心を持ち始めた若いビクトリア医学生・クリフォード・ピール中尉とこれらの発展の可能性を見た。
ジョンの話に耳を傾けるクリフォードは、彼自身の発想とジョンの考えを組み合わせ、フランスで猛威を奮う戦場行きの船上からジョンへ手紙を認めた。
1917年11月21日付の彼の手紙には、飛行機が内陸における多くの輸送問題を克服するという書き出しから、内陸布教区の医療業務体制、航空機の空輸速度、距離からそれを採用した場合のコストなどの概説、支援施設の必要性などが記されていた。
ジョンはクリフォードの綿密に記された手紙に感銘し賛同した。
彼は即座に1917年の教会インランダー・マガジンの中でクリフォードの提案を公表した。
1918年第一次世界大戦直前、クリフォードは、その記事を見ることはなく、飛行中、フランス国内の上空で大きな爆音とともに亡くなった。
しかし、彼の著しいビジョンは、今日のロイヤル・フライング・ドクター・サービスのなかで生き続けている。
ジョンは数年間、自身の優れた資金調達力を存分に活用し、1928年までにAIMは、フライング・ドクター計画を設立するに十分な資金を確保できた。
プロジェクトの支持者には、財界人のマッコイ氏、ハドソン・フィシュ氏、またジョン の着想に感銘した若きメルボルンの医師、ジョージ・シンプソン博士である。
その年の5月15日には、航空医療サービスはクィーンズランド州クロンコカリーで1年間の試験運航として確立され、何年も見続けたフライング・ドクター・サービスの夢は、困難を乗り越えて現実のものとなった。
1917年5月17日の要請に応じ、最初の公式飛行業務が、1928年、クロンカリ-からジュリア・クリーク間で行われた。
カンタス航空のアーサー・アフレック機長が最初のフライング・ドクター・サービスとして、シドニーの外科医ケンヨン医師、聖ビンセント・ウェルチ
(同氏には年棒1千ポンド。2千ポンドの保険金が掛けられた。)を輸送した。
カンタス航空はAIMと契約し、パイロット、航空機、また、それに掛かる業務を提供した。
試験運航の年は無線設備なしで行なわれたが、高まる救難要請に対応できない連絡の遅れは、関係者のフラストレーションとなった。
1925年、ジョンはアデレードに在住するエンジニア、アルフ・トリーガー氏に会い、彼の才腕はAIMで発揮することとなった。
最初の通信範囲は140kmのモールス信号であったが、近距離通信の問題は、彼が進めていたワイヤレス・トランシーバーの開発に期待された。
1927年のメルボルン・カップの日、ついにクロンカリーでワイヤレス・トランシーバーの実験に成功し、それまでの通信設備による問題は一挙に解決した。
その後、幾たびもの試験を繰り返し、諸問題であった出力と運転に要する人員も解決し、1929年には有名な遠距離用ペダル・ワイヤレス無線機が完成した。
クロンカリーにアウトバックで最初の通信施設を設置し、アルフの協力もあって試験運航の初年度は、50回にわたる飛行が行われた。
1万8千マイルの距離を225人の患者が医療施設へ輸送され、少なくとも4名の命が救われた。
1928年、ついにフライング・ドクターの夢は現実となった。
その後の数年間、ジョンとその支持者らは、まだ幾多もの問題に直面したが、業務の遂行は1920年代後半から1930年初めの世界恐慌にも生き残り、奇跡的な成功をみた。
1932年、AIMは内陸の中心部から病院を10ヶ所ほど設置した。
小さな病院ではあるが、医療施設のネットワークを構築することができた。
フライング・ドクター・サービスに係る医師、パイロットなどもウェルチ、アフレックらに続いて増員され、クロンカリーの運航は数年にわたって成長を続けた。
やがて、厳しい金融難も乗り越え、持続してきた運航業績は、全国に止まらず、世界の人々から共感を得た。
人々は大陸に広がるフライング・ドクターのネットワークを推し進めるよう、ジョンと救急医師アラン・ヴィッカーズ博士に期待した。
1934年、長老教会は、新しい業務母体を「オーストラリア航空医療サービス」へ移管した。
数年に渡った業務区画は、チャーターズ・タワーとキャレベルの2ヶ所を加え、ウィンダム、ポート・ヘッドランド、カルグーリ、ブロークンヒル、アリス・スプリングス、ミーカサラをベース基地にオーストラリアを横断するようにして設置された。
1936年、統合連邦議会が確立され、1942年に組織名は「フライング・ドクター・サービス」と改称。
1955年には女王から「ロイヤル(王立)」の接頭辞敬称が与えられ、現在の名称「ロイヤル・フライング・ドクター・サービス」となった。
しかし、成長を続ける業務は莫大な資金を要し、政府の定期補助金(連邦及び州政府)も低下していた。
ついにジョンとその支援者は寄付金を募るため、公に訴え始めなければならなかった。
今日でさえ、年間資金調達の一部は、信託、寄付金などから賄われ、極度に依存し続けている。
募金によって集められた資金は、業務時間、ボランティア、またフライング・ドクターに重要な役割を担うための不可欠な背骨として残っている。
医療業務が初めて施行された時、フライング・ドクターの責務は、緊急飛行業務、救急援助、また必要ならば患者を病院へ搬送し、医師不在の地域への定期クリニックも行い、カウセリングも請け負った。
本質的に、今日もまだこれらの業務が行われているが、テクノロジーの発展により電話は無線通話以上に普及された。
業務の増加はテクノロジーを有利に使い、会議はテレビで、実務はクリニック・フライトで専門医、歯科医、健康に関する多彩な専門家を引き入れた。
シスターであったミラ・ブランチ女史は、1945年、RFDSに従事した最初の看護婦である。
ミラは40年代から50年代にかけて、家庭看護、免除、予防のアドバス、また公衆衛生上の管理などを試みて、時折、医者の代理としてニューサウスウェールズ地区にも従事した。
彼女はフライング・シスターと呼ばれ、彼女の業務は、時折、馬にも乗ってさらに奥地へと移動した。
今日、医師の判断に基づく認可する飛行は、医療避難の80%が搭乗するフライトナースとパイロットだけで遂行されているが、60年代までは現在のような定期業務は行われていなかった。